ふじみクリニック

カサンドラ症候群-「高機能自閉症」と妻たちの憂うつ-

2024.01.28


[狭山市 智光山公園 2024年1月]

以前のことですが,立て続けに何人かの方から,「私はカサンドラ症候群かもしれない」というお話を伺いました。不勉強でよく知らなかったので,「いったいどんな症候群なんですか?」とお訊きしたところ,「夫が発達障害のために,コミュニケーションがうまく取れないような関係が長年続くと,妻の方に様々な不具合が出てくるものだっていうことです」と教えてくれました。

以下は,そうしたお話を伺って想像した筆者の創作事例です。

結婚してそろそろ30年を迎えるAさん夫婦。子どもたちは独立して結婚し,二人の孫にも恵まれている。夫のBさんは長く務めた会社の定年が間近になって,昨年から子会社に出向しているが,今後の生活に格別の不安はない。多くはないが,コツコツと貯めた老後の貯えもある。夫が定時勤務で帰るようになり,休日もしっかり確保できるようになったのはいいことなのだろうけれど,とAさんはため息をつく。「最近頭痛や便通異常がひどくなって,内科にしょっちゅうかかるようになった。その都度,どこにも異常はないと言われるのだけど。それに・・・夫婦二人の時間が長くなって,どうも間が持たない」というのである。

休みの日,夫は終日テレビの前に座ってニュース番組ばかり見ている。今度のドラマ面白いわよ,と話しかけても,ああそう,オレはいいや,とチャンネルを変えない。天気の良い朝,たまには散歩に行きましょうと誘っても,ああ,オレはいいや,という。そのうち,何か声をかけても黙ったままテレビから視線を外さないから,最近ではあきらめて,必要最小限の言葉がけしかしないようになってしまった。

去年の秋,孫が保育園でコロナをもらってきてしまったと娘から電話があったとき,私は大慌てで何か手伝ってあげられることないかしらと夫に言ったら,何かしてくれって言われたわけじゃないだろ,と平然としている。さすがに頭に来ちゃって,一人でスーパーに行ってあれこれ買い揃えて,タクシーで娘の家に持って行った。

そういえば,何年か前,私が夫の部屋を掃除していて,目に留まった10年も前の埃をかぶった雑誌とか新聞とかをまとめて,資源ごみに出していいかしらと聞いたとき,夫は血相を変えて,勝手にオレのものに触るなとびっくりするくらいの激高ぶりだった。

そのときは,勝手に捨てようとした私もよくなかったと反省したが,振り返ってみると,同じ屋根の下で長年暮らしているけれど,夫はずっと夫だけの世界に棲んでいるようだ。子どもの運動会に行ってうちの子が走る番だよと言っても,持ってきた文庫本から目を離さないし,姪の結婚式で初めて会う遠縁の親戚があいさつしてきたときもどこか知らん振りの態度だった。あとであれは失礼だよと指摘したら,結構な勢いで憤慨された。顔も名前も知らない人に声をかけられて,なんで返事しなきゃならないんだよ,とか。

そんなんで,よく長年仕事続けてこられたな,と思う。今回の「出向」も,もしかしたら窓際に追いやられてのことだったのかなと思う。夫は何も言わないけれど。

大病に罹らなければ,まだこれからの人生は長い。ほんとうにこの人と一緒にやっていけるのかなと不安になる。それとも,私がわがままなだけなのかしら。夫婦なんてこんなものなのか,妻としての私の配慮が足りないのか,正直よくわからないし,自信がない。夫とはこんな話とてもできない。してもわかってもらえそうもないし。

なるほど。軽症の「高機能自閉症」と診断されそうな人(当事者)の方からは,上述のAさんの悩み事と裏返しの人間関係上の悩み事をお聞きすることは多いものです。それなりの職に就き,家庭生活を営みながらも,夫婦関係のみならず職場や友人関係の中で,「どうも相手の気持ちがわからない」,「その場の雰囲気に乗りにくいので,雑談や世間話は苦手。学校や会社でお昼ご飯などは一人で済ますことが多い」,「新人歓迎会や忘年会には参加したくない」などという悩み事です。Aさんの訴えを鏡に映したようなお話だということに気づきます。

1 高機能自閉症とは

ひとことで言ってしまうと,「知的障害を伴わない自閉症」の方のための診断です。「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群(障害)」とは概念の出自が異なりますが,概ね同様の内容と考えて差し支えありません。[2022年8月の本コラム記事もご参照ください。]

自閉症という疾患(病態)概念を最初に報告したのは,米国のレオ・カナー(Leo Kanner, 1943)です。米国精神医学会によるDSM-ⅣやWHOによるICD-10にアスペルガー症候群(障害)が採りあげられ,その名づけ元として一躍名前が知られるようになったドイツのハンス・アスペルガー(Hans Asperger, 1944)が当初報告した症例群の標題は「子どもの自閉的精神病質」とされていました。この「アスペルガー症候群」という名称を提唱したのは,アスペルガー本人ではなく,ローナ・ウィング(Lorna Wing, 1981)というイギリスの小児精神科医です。ウィングは,娘が自閉症であったことから発達障害の臨床と研究に深く携わるようになったということが知られています。

この3人の学者/臨床家の提示した症例群の概要を整理すると下の表のようになります。

2 ウィングの「三つ組み」

表中,ローナ・ウィングの症候学的「三つ組み」とは,以下の3つの発達領域における「質的差異」として記述されています。

(1)社会性

(2)コミュニケーション

(3)イマジネーション(想像力)*

* イマジネーションとは,『目の前に具体的にない事物や物事の生起に関する様態を,心の中で直感的に操作し適切な行動に帰結させる能力』として捉えると理解しやすい。

上記のような特性がありながら,相応の(科目によっては,しばしば平均以上の)学業成績を示したり,自分の適性(才能)に合致した職を得た際には,見事な業績をあげたりもするので,周囲からは「変人」とか「性格がよくない人」などと評されることが珍しくありません。そのために,彼らは特有の「生きづらさ」に悩み,二次的にうつ状態や被害的不安を生じて心療内科や精神科を受診する方も増えてきているようです。

3 カサンドラ症候群

さて,ようやく冒頭にお話しした「カサンドラ症候群」です。最初に断っておかなければなりませんが,この「症候群」は,正規の精神医学的なカテゴリーではありません。もちろん保険病名にも掲載されてはいない「不健康な関係性による様々の心身の障害」といった概念です。

カサンドラというのは,ギリシア神話に登場するトロイの王女の名前です。ギリシア神話に語られる多くの逸話は,様々の精神的・心理的「症候群」の名に冠されており,有名なものではフロイトの提示した「オイディプス・コンプレックス」などがあります。それはこの神話群が,時代や土地柄を超えて共通する人間の行動特性や関係の在り方を,象徴的に(やや誇張して)描いているためでしょう。

詳細は省略しますが,神話では,カサンドラは太陽神アポロンに愛され,アポロンから予知能力を授かります。ところが授かったその能力によって,将来アポロンに捨てられてしまうことを予知したカサンドラは,アポロンの愛を受け容れられなくなります。怒ったアポロンは,「カサンドラの予言は誰も信じない」という呪いを彼女にかけました。その後カサンドラが予知した真実を周囲に伝えても,人々から決して信じてもらえなくなってしまいました。

まあひどい話ですが,ギリシア神話には,現代の私たちの基準からすれば,不埒な(非倫理的な)行動を取る神々が数多く登場します。最高神ゼウスにしてから,嗜癖(依存症)的なほどの浮気性だったというのですから。

前項に記述した社会性(共感性)やコミュニケーションの不全を有する高機能自閉症の人とパートナーシップを結んで長く暮らすと,とりわけ双方の親族が少なかったり,あまり社交的でないような閉鎖的な家庭環境であったりした場合には,障害のないパートナーの方が,「どうしてわかってもらえないのだろう」,「私の話し方がおかしいのかしら」などという疑問や悩み事が積み重なっていきます。職場で好成績をあげているような夫**の場合には,なおさら自分の方に何か問題があるかしらと悩みこむわけです。カサンドラが周囲の人々(神々)に,パートナーの不誠実を訴えても,アポロンの呪いのために,誰も耳を貸さなくなって孤立し,苦悩する姿と重ねてこのような「症候群」が提示されるようになったわけです。(アポロンが自閉症的であったかどうかはわかりません)

** 高機能自閉症/アスペルガー症候群は男性に多い(男女比約4:1)ものなので,ここでは夫の方に障害があり,ほんらい障害のない妻の方が二次的に「カサンドラ症候群」を呈するという解説になっています。もちろん少数でも,女性に障害があり,男性パートナーが「カサンドラ」に陥るケースもないわけではありません。

症状としては,頭痛,体重の大きな変化(食欲不振または過食傾向),自己評価の低下に伴ううつ状態,無気力感など多彩なものが現れます。発達障害や自閉症概念が世の中に知られるようになり,アメリカでは1997年に成人アスペルガー症候群の影響を受ける家族の会FAAAS, Inc.(FAMILIES OF AFFECTED BY ASPERGER’S SYNDROME)という自助団体が1997年に立ち上げられています。

4 (少しだけ)対応について

治療対応については本稿の範囲を超えますが,「カサンドラ症候群」とは,結局のところ,ストレスフルな環境への心身の対処が困難になっている状態です。したがって通常の精神医学的診断としては,「適応障害」というカテゴリーに含まれることになります。[2022年6月の本コラム記事もご参照ください。]

個々の症状に対しては対症的薬物療法や対処に関する心理教育的接近が有用ですが,やはり発達障害が疑われる相手とのパートナーシップ(夫婦関係/友人関係/親子関係等)のゆがみが基礎にあるわけですから,パートナーが発達障害かどうかの見立てが重要になります。パートナーが同意してくれるならば,一度は成人発達障害の診療を標榜する医療機関等[「成人発達障害支援学会」のHP]を訪れてみることでしょう。

もっとも,パートナーが必ずしもアスペルガー症候群のような発達障害でなくても,性格,行動規範,価値観や物事の嗜好性における著しい相違があり,お互いに相手を理解しようとの姿勢が持ちにくくなっている場合には,パートナーのどちらにでも同様の症状が現れてもおかしくありません。精神科や心療内科クリニック,あるいは公的機関(保健センターや保健所の精神保健相談の窓口など)の門をたたくときには,自分がパートナーとの関係において悩んでいることをなるべく具体的に整理して,パートナーとの関係をどのようにしたいかについても,ある程度お考えになったうえで相談を持ち込むことが得策でしょう。