2024.11.25
[2024年11月 入間川]
幼少期に不遇な環境で育った子どもたちが、長じて様々の心身の問題を発展させることが知られています。
かつて、米国発の「アダルト・チルドレン」という言葉がわが国でも流布していた時期がありました。最初に耳にした人は、「アダルト・チルドレンってなんのこと? 〈大人子ども〉って何なの?」などと誤解を招くこともありましたが、アダルト・チルドレンとは、“Adult Children of Alcoholics”のことで、ACと略称されることもあります。親がアルコール依存症(等の嗜癖的問題)を抱えていたために、子ども時代に様々の苦労を体験し、その後成人した人びとのことを指した言葉です。
ACとは、当初、アルコール依存症者とその家族への援助を通じて、彼ら(依存症者本人のみならず、その妻や子どもたち〈Children of Alcoholics; COA〉も含めて)の生活全体を目の当たりにした米国のソーシャル・ワーカーや保健師(公衆衛生看護師)たちが、仲間うちで用いるようになった言葉です。
現在では、親のアルコール問題のみならず、不適切な養育態度、虐待行為、その他さまざまの不十分な家族機能に由来して子どもたちが体験した困難を、より広く「逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experience; ACE)」と総称して、その後現れた精神的問題(精神的苦悩や心身の諸病態)との関連性について広く研究が進められてきています。
親の不適切な養育態度とは、親からの暴力(身体的虐待)やほかの家族メンバーへの暴力の目撃、心理的虐待やネグレクト、アルコール問題などで生計能力を失った父親をカバーして働く母親を支えるための家事一般への年齢不相応なほどの役割、同じ理由による母親からの適切な情緒的支えの不足、両親の別居・離婚・再婚などによる居住環境や教育環境の頻回の変化、親のぐちの聞き役など、種々雑多なものが含まれます。
このような家族のなかで育つ子どもたちは、大小さまざまなストレスに持続的にさらされています。それにもかかわらず、外見上大きな傷害/障害を顕わさないまま成人してしまえば、もはや直接の援助・治療対象とは見なされない「忘れ去られた存在」でした。このことに気づいた女性たち(ソーシャル・ワーカーなどの援助者は圧倒的に女性が多く、日本でも同様です)が、看過されていた人々にACという名前をつけたのです。
つまりアダルト・チルドレンとは、特定の医学的概念(症候群)を構成するものではありません。重要なことは、この呼称が生まれたことにより、当事者自身による「回復運動」に火がつき、AAやAL-Anonというアルコール問題関連のグルーブに続く、新たな自助グループの発展にもつながったということなのです。
子ども時代の逆境に必死に適応して、さまざまの困難を抱える家族環境を生き抜いてきた結果、ACは妙な具合に「仕切り屋」さんになっていたり、自分の周囲で起こることをことごとく「自分の責任」と過剰に考えてしまう傾向(「過剰な自己への責任帰属傾向」)を身につけてしまったりします。またそれとは逆に、困った状況からひたすら逃げまくり、自己充足的な逃避行動(パチンコ、テレビゲーム、飲酒など、ときに仕事も)に浸り込んで、無責任・無関与にふるまう傾向を強めることもあります。
さて、ACという言葉には、こうした自分の対人関係のあり方とそのルーツを自覚し、それらを修正していく契機を提供してくれるという、「自己治療的」な意味が含まれていました。
「なんで自分の『性格』はこんなにゆがんでいるんだろう」、「どうして私はいつも男運が悪いのかしら、こんなに献身的に尽くす私なのに…」などと思い悩む人々が、「そうか、それは私だけのせいじゃなかったんだ」、「オレは自分を責めなくてもいいんだ」と自覚し、それにもかかわらず、あれほど嫌悪していた親と同じような生き方・考え方をしているかもしれない自分に思い到るのです。そのとき ACは、世代を超えて、あるいは自己の人生のなかでも反復されているある種の対人関係のパターンを、自責感を抱くことなく改変させていくよすが(縁)を得たことになるわけです。これがACという言葉の効用であり、それは彼らの成長の起爆剤になりうるものだということです。
けれども、残念ながら、問題はそれだけではすみません。「育て損なったあげく、こんな『みじめな自分』をつくり上げた」親の責任を追及しなくてはおさまらないという恨みの心情が湧いてきたとしても不思議ではないからです。極端な場合、対親暴力が生じることや、実の親子間の訴訟問題が生じることもとくに米国では珍しくなかったようです。
ただ、親の肩を持つわけではありませんが、長い子育ての間にはさまざまの難しい状況が訪れます。どんな「育てやすい子ども」に恵まれたとしても、「完璧な子育て」を設えることのできる親などほとんどいないでしょう。したがって、Yさんの両親や、先述したような、親からのあからさまな外傷的体験がはっきりしている家族はともかく、顕著な機能不全を起こしているわけではない家族においても、自分の子どもから「親のあそこが悪かった」、「あんなことをいわれてひどく傷ついた」などと、あとで批判される「子育ての失敗」の経験を全くもたない親もまたいない、といわざるを得ません。
こうした事情が、「AC」という言葉から派生する親の側の不完全さ、弱さ、苦しさを際立たせ、「AC 運動」に対して当初好意的に報道していたマスコミに対して、「若者の他罰的な(自身の責任を放棄する)傾向を助長するACというアプナイ言葉」とこれを用いる関係者に対する批判の声を上げさせることにもなりました。
自覚的にか否かを問わず、苦労して自身を生き延びさせた後、彼らが「AC」という言葉にたどりつき、「自分は生まれつきだめなやつ」という心の呪縛から解き放たれたそのあとに、もう一つの気づきを得ることが彼らの成長には欠かせないと言えるのかもしれません。
Yさんは、親がほんらい備えているべき保護機能が大きく損なわれた家族に育ち、誰が見ても「そりゃあたいへんだった」と理解しやすい子ども時代を送っていました。その子ども時代が彼の現在の深刻な心の痛み(あるいは「精神症状」)と何らかの関連性をもっていることには、それほど異論がないと思います。けれども、 Yさんが苦しみ、いまでもおののいている根にあったものは、何よりも妹への裏切り行為の記憶でした。それはA心理士という聴き手を得てはじめて語られた、Yさんを縛りつけていた彼の半生の物語でした。
A心理士との面接を通じて、Yさんは、考えまいとしていた自分の「罪」を見つめ直し、当時の空腹惑を再体験し、何度も涙を落とし、結局、もう一つの「しかたがなかった」という思いに到ったのではないかとA君は言いました。もっとも頭では理解できても、感情はなかなか変わるものではない、というのが人の常です。
A心理士と対話するなかで、自分たちを見捨てた両親への恨みと同時に、断ち切りがたい愛惜の気持ちもYさんは否応なく自覚してしまいました。生活保護を申請し、役所が探し当てた両親の住所を聞いて、Yさんはさんざん迷ったあげく、母親に電話したといいます。
しかし、母親はYさんが自分の現況を説明する言葉を最後まで聞かず、「悪いけどあなたの面倒を見るゆとりはないの。子どもがまだ中学生でお金がかかってしまうから」と答えたといいます。「そういわれるに決まっているとわかっていたから『役所から何か問い合わせがあっても、世話できないと答えてほしい』と伝えようとしていたのに」、「……でもやっぱり、ほんの一言でも、悪かったと言ってほしかったのかもしれない……」。YさんはA君にそう述べました。
そしてずっと「ないものねだり」をしていた自分にも気づきました。さらに電話でのいくつかのやり取りのなかで、父親と離婚するに至った母親の思いとその後の生活をはじめて聞き知って、「母は……子どもなんか産むべきでなかったと、別れてからずっと後悔していたらしいです。それなのに再婚して、またしても夫の借金と子育てに苦労している自分はばかみたいだ、人間失格だとも言っていました。そうなんです、きっとしかたなかったんです」と感想らしきものをA君に語りました。
こうした経緯をへてYさんが到達した「しかたがなかった」という思いには、『父と母が親になったのが間違いだった』、『母もどうしてよいかわからなかった』、『自分だって…あのとき…どうすることもできなかったのだ』、『でも、誰も別の方法に出会うことができず、しかたがなかったのだ』と、いくつもの意味が込められているようです。
それからYさんは深いうつ状態に陥り、しばらくほとんど寝たきりの生活に入りました。ときどき受診して、ため息をつき、将来の見通しの立たないことを嘆いては帰っていくようでしたが、あれほど訴えていた「(自己)視線恐怖」や「自我漏洩的訴え」は、その後あまり話題に上らなくなったといいます。
Yさんのような患者さん(狭義の精神病ではなく、心の傷つきに苦しむ患者さん)に出会うたびに募るのは、医療者/聴き手としての自己の無力感です。ですが、ある時間を共有して対話を交わし、そのなかで患者さんが少しずつ違った自分という「物語」を紡ぎだし改訂していくのに立ち会うことができたときには、こちらの方が勇気づけられる気がするのです。
〈参考文献〉
1. 中山道規ほか著:「ACの臨床」,星和書店,1998年
2. ジャネット・ G・ウォイティッツ著,斎藤学監訳:「アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち」,金剛出版。1997年。
3. 与那原恵:「癒しの時代のカリスマ 斎藤学:アダルト・チルドレンは新宗教?」,諸君,1997年 8月1日発行
4. 坂本哲史:「さようならアダルト・チルドレン」,AERA,1983年3月9日発行
5. 根ケ山光一:「『子育て』のとらわれを超える-発達行動学的「ほどほど親子」論」,新曜社,2021年