ふじみクリニック

薫る風の中で

2022.05.07


[2022/5/2 東久留米市 小山]

 
まぶしい陽射しを手でよけながら住宅街をぶらぶらしていると、角を曲がった途端、不意に、緑の穂が涼しげに風に揺れている一画に入りました。清瀬から東久留米にかけて、こんなぽっかりとした風景に時々出会います。青々とした穂は麦です。晴れて暑い日でも、寒々とした雨の日でも、この季節の麦はしゅんと勢いよく、強い雨風に揺れて倒れても、風が収まれば必ず起き上がってくるしなやかな草です。

足を止め、半分目を閉じてぼんやり眺めていると、風が吹いて大きくうねる麦畑は波打つ緑の湖面のようです。畑をわたってここまで届く風は、ほんのかすかに甘酸っぱい香りを含んでいて、あてなく歩く散歩客を我に返してくれます。

麦畑の隣に小さな公園があり、水飲み場と滑り台とプラタナスの木陰に小さなベンチが二つ。その一つに、一人はふさふさとした白髪の、もう一人はつるりんと素敵に光る頭の二人の老人が座って何か話していました。二人が座る向かい側に置かれたベンチに腰を下ろし、聞くともなしに二人の話が耳に入ってきました。

白髪老人
(以下「白」)
コロナもなんだけど、欧州の戦争はいつまで続くのかね。
つるりん老人
(以下「つる」)
ロシアっていう国はしかし、あんなにひどいことして、ふつうの市民は平気なのかね。
情報管制ってやつだろ、SNSとかネットニュースも国内では切られちゃってるそうだから。
つる 今も昔も「大本営発表」ってやつかい。まあ、おれたちの知ってることも全部が全部ってわけじゃあないんだろうけど。
しかしウクライナの方も、ここまで抵抗するってのは、立派と言えば立派だけど、すっかりやられちまうまで意地張るものかねえ。
つる そりゃそうだよ。なんたって自分の故郷がなくなってしまう瀬戸際だもの。
そうかもしれないけど、人間、生きてなんぼだよ。
つる でも誰も助けてくれないし。
誰もねえ・・・おれたちもその「誰も」ってやつに入るんだろうね。
つる ああ、おれは駅前でやってた募金に奮発して千円入れたけど。
千円かあ・・・年金生活のおれたちにできる事ってそのくらいだよなあ。
つる ・・・・ロシアにゃロシアの言い分ってもんもあるんだろうけどな。
喧嘩両成敗ってか?
つる 考えてみればロシアとウクライナだけじゃないよな。パレスチナとイスラエルとか、アフガニスタンとかシリアとか。おれたちの若いころはべ平連とかいうのがあって、ベトナムに無差別爆撃したアメリカを非難してた時期があったよな。そう考えたら、おれたち、全然進歩してないってことかい。
なんだか悲しいねえ。そうそう、おれの町会の集まりに、こないだ外人さんの奥さんが子ども連れで来てたんだよ。巻き毛の女の子のくりんとした瞳があんまりかわいいもんだから、お国はどちら?って話しかけてみたんだ。イランからコロナ前に働きに来て、こっちで結婚して子どももできたけど、国の親たちにまだ孫を会わせることができないってしょんぼり言ってた。
つる 日本語できるんだ。
馬鹿にしちゃ失礼ってもんだ。なんだか、最初はえらく苦労したらしいけど、職場の同僚が休みの日も熱心に言葉教えてくれたんだってさ。
つる するってえと、
そうよ。その日本語の先生と,めでたくね。
つる それでかわいいハーフのくるりんちゃんか。
しかしなあ、その若いお母さん、町会の連絡事項を、なんかスマホに録音もして、配られたプリントに一所懸命メモも取ってるんだよ。それもカタカナとアルファベットでさ。おれ、ちょっとほろっとしちゃって、何かわかんないことあったら、いつでも聞きにおいでって、うちの電話番号メモして渡したんだ。
つる どっかのスケベ親父がって、怖がられたんじゃないか。
なに寝ぼけたこと言ってやがんだ。にっこり笑顔でありがとうって。子どももこっち見てこくんと頷いてくれたもんさ。
つる ・・・うん。おまえさんにしては、いいことしたな。
しかしロシアもなあ。日本にだってロシアの人もウクライナの人もいるんだろ。
ロシアの人が戦争反対ってデモしてたニュースがあったな。
つる ロシア国内でもあったようだね。おれたち、そういう人をロシアってだけで白い目で見ちゃいけないよな。
それにこの平和な状態が当たりまえってことじゃないんだよな。
つる そうだよ、おれたちの親や爺さんたちがどんな苦労して今を作り上げたのか、こりゃもう一度中学生から勉強やり直しかな。
それにしても・・・
つる 弱い者いじめってのはどうにも納得いかないがね。

二人の老人は同時に大きなため息をついて、席を立って背伸びをし、じゃあまたな、と言って別の方向に歩いていきました。