ふじみクリニック

医療安全について(1)

2024.02.25


[東久留米市小山 2024年2月]

Errare humanum est, perservare autem diabolicum
過ちを犯すのは人間的な振る舞いだが,過ちを犯し続けるのは悪魔の所業である(セネカ)

はじめに

「医療安全管理」とは,今では医療機関の経営/運営の要となった感がありますが,ほんの二十年くらい前までには,日々の診療において基礎的な安全性を保持するためにこれほどのコストとエネルギーを要することになると予想できた人は少なかったことでしょう。現在では,病院勤務の医師や看護師など医療専門職従事者は,研修段階のみならず,定期的に医療安全や臨床倫理に関する研修を受けることがほとんど義務化されるに至っています。

それにもかかわらず,現在の医療事情は当時と本質的には変わっていないと思われます。ずいぶん前の記述になりますが,筆者が公刊した医療安全に関する総論的論文*を,加筆修正しながら,これから今月から4回に分けて掲載していきたいと思います。当時医療者向けに書かれた文章なので,やや硬い感じがありますが,病院や診療所に勤務するものは,このようなことに留意しながら日々の診療にあたっているとご理解いただければ幸いです。

*佐野信也,野村總一郎:統合失調症患者の診療における医療安全の確保-医療安全の概念とその重要性-.所収「統合失調症治療の新たなストラテジー(石郷岡純他編)」,pp236-243,先端医学社,東京,2011

多数回にわたるので,それぞれの回の冒頭に目次を記しておきます。また,引用文献は第4回の末尾にまとめておきます。

第1回(本コラム)

1.医療安全管理とはどういうことか,その対象はどのようなものか
2.医療安全管理は,理想と現実の架け橋である

第2回

3.医療安全管理の成否は医療者の志気(morale)に直結する
4.3種類の「危機管理」
1)リスク・マネジメント(RM)とクライシス・マネジメント(CR)
2)問題探索的・先見的危機管理(IM)

第3回

5.倫理綱領の策定・公開と説明責任:透明性と相互性を備えた率直な情報開示の重要性

第4回(最終回)

6.医療安全において用いられる用語の整理
1)有害事象(occurrence, sentinel event),過誤(error, mistake),過失(negligence)
2)医療水準(medical standards)
3)注意義務,安全配慮義務
4)予見可能性(predictability)
5)説明義務

おわりに
引用文献

1 医療安全管理とはどういうことか,その対象はどのようなものか

私たちの国で医療安全体制の確立が遅れたのは,パターナリスティックな医療風土を背景とした医療提供者側の閉鎖性1),また専門知識の偏在による医療訴訟の認容率(原告患者さん側の勝訴率)の低さ2)などが関連していると考えられています。

わが国でもようやく,医療安全やリスクマネジメントに関する実用性の高い成書3,4)がいくつか出版されるようになりましたが,それらの多くは医療事故に基づく訴訟件数の増加や訴訟内容の複雑化に関する記述から説き起こされています。確かに,私たちの法律的知識の乏しさを振り返り,医療安全という領域が予想外に広く深いことや,その重要性を認識すると,そうした啓発的記述が先行するのもやむを得ません。けれども,医療安全管理とは,訴訟予防あるいは訴訟に負けないための準備といったネガティブな側面ばかりが意識されてしまうのは考えものです。

医療安全管理とは,本来病院や医療者の側の安全(≒損害回避,保険的意義)を目的としてたものではなく,それは第一に患者さんの方々に良質の医療を提供するための基本条件です。それだけでなく,医療安全の確保は,医療者が意欲的に仕事に取り組み,最大限の能力を発揮しうる勤務環境の基本条件でもあるということを強調しておきたいと思います。

医療安全の領域は精神科医療に限っても広い範囲にわたる事柄が含まれています。(表1,2)
このうち,精神科医療三大事故4)と呼ばれる,1)不慮の事故,2)自殺,3)患者さん間の暴行・傷害(致死),また昨今とくに注目されているのは,4)非定型抗精神病薬による糖代謝異常等の副作用,5)身体拘束に伴う深部静脈血栓症による肺塞栓症などがありますが,本コラムでは,精神科医療における医療安全の基本的考え方についてだけ押さえておきます。

表1 精神科医療における安全管理の領域

1 自殺・自傷行為  
2 不慮の事故 転倒,転落,誤嚥,窒息
3 他害行為 患者さん‐患者さん間,患者さん‐医療者間
4 薬剤関連ミス 誤投薬(他の患者さんの薬剤与薬,与薬漏れ,与薬時間ミス),調剤ミス,その他
5 薬剤の副作用 中枢性呼吸・循環抑制,錐体外路症状(喉頭ジストニアを含む),糖代謝異常,低体温,悪性症候群,セロトニン症候群,コリン作動性クリ―ぜ,不整脈(QT延長,PR延長),イレウス,腎機能障害,肝機能障害,皮膚症状(Stevens-Johnson 症候群, 中毒性表皮壊死症候群)横紋筋融解症,その他
6 離院,無断外出  
7 院内感染 結核,インフルエンザ,ノロウイルス等による感染性胃腸炎,疥癬等の皮膚感染症など;
8 身体合併症 水中毒,深部静脈血栓症および肺塞栓症

表2 精神科医療事故の類型別割合5)

1 不慮の事故 窒息,転倒,溺死等 32.0%
2 自殺   24.9%
3 他害行為 患者さん間の暴行・傷害・傷害致死・殺人 12.4%
4 医療行為に伴うもの 誤薬等 6.7%
5 突然死   5.4%
6 身体合併症 院内感染等 4.3%

2 医療安全管理は,理想と現実の架け橋である

患者さんには時に受け入れがたく感じることもあるでしょうが,医学医療は万全ではありません。どのような医療行為にも好ましくない作用が分かち難く含まれています。

手術前後を含めて痛みを全く感じないで済む外科治療はありえないし,患者さんの耐用力を見誤って選択された抗がん剤は取り返しのつかない結果を生むこともあります。

精神科臨床の例をあげれば,妄想に囚われ暴力衝動が高まっている患者さん,強い自殺観念を持つ患者さんに対して,患者さん-医療者双方の安全を確保するためには,十分な薬物療法が必要となります。しかし,統合失調症をはじめとする急性期の精神病の患者さんは,しばしば見かけ以上に栄養状態が不良であり,睡眠剥奪状況にもあるため6),過鎮静や錐体外路症状などの副作用が生じやすいといえます。そうかといって薬物療法を手控えて身体拘束を行えば,今度は循環障害や深部静脈血栓肺塞栓症7)が生じやすくなってしまいます。あるいは,自傷他害の恐れの消えない患者さんに外出制限や個室隔離などの行動制限を継続すれば,その危険は回避できたとしても,今度は患者さんの自律性を奪い,依存退行傾向や社会性の障害を助長する可能性が高まってしまいかねないとも言えるのです。

このように,病を持つ人々の治療に際して,私たち医療者は(そしてもちろん説明されたご家族もまた)いつでも,「あちら立てればこちら立たず」のディレンマに陥らざるを得ません。治療遂行上のリスクを完全に回避しようと思えば,治療そのものを放棄せざるを得ないという事態に陥ってしまいます。

例えば相当量の抗精神病薬が必要な統合失調症を病んだ女性の患者さんが妊娠を希望した際に,断念するかあるいは病状悪化のリスクを覚悟で一定の休(減)薬期間を導入するかを二者択一的に患者さん自身や家族に選ばせることで医師が結果責任を回避しようとする時代もありました。しかし,個々の抗精神病薬の胎児や妊娠経過に及ぼす影響に関する知識が集積され,また妊娠中の非侵襲的な胎児モニタリング技術が大きく進歩した現代にあっては,可能な選択肢は増え,それぞれに対する説明責任が医療者には課せられています。今後は,このような妊娠に対して代理出産を希望し,その成否可能性やリスクの説明を求める患者さんも珍しくなくなることでしょう。

つまり,医療安全の確保とは,「いかにリスクを低減させるか」という一方向的な単純な問いにはとどまらないのです。一つの医療行為が併せ持つプラスとマイナスを,患者さんの病態とその個人的選好(preference)を考慮したうえで,総合的かつ継時的な評価が行われなければなりません。そして丁寧なインフォームド・コンセント(Informed Consent; IC)のプロセスを通じて,「痛みのない治療・回復」という理想に可能な限り接近する方法を,現実的選択肢の中から患者さん,その家族,医療者が三者共同して選びとり,ときには,そのリスクはどこまで「受容できるか」という逆の視点から問い直すことが求められる厳しい治療の枠組み作りそのものともいえるわけです。

このような共同作業を通じ,多くの現実的制約の中で一歩でも理想的治療に近づいていくことにこそ医療安全管理の意義が存在するのです。

(来月に続く)