2025.10.31

清瀬駅 秋の夕暮
日本の二人の自然科学者がノーベル賞を受賞しました。それは、自身の尽力の結果が日々見えるわけでもない基礎研究などに、悩みつつ打ち込む無名の若い研究者の眼には、暗い海のはるか向こうに微かに明滅する灯台の光のように映るかもしれません。
受賞者の発言をお聞きしていると、彼らが寝食を削り、いかに自分の研究(関心対象)に没頭してきたかが想像され、すごいなあと思いつつ、自分にはとても無理、やっぱり普通の人間ではないよね、などと感じ入ってしまいます。
自然科学、社会・人文系科学など学術研究のみならず、例えば美術、音楽、文学等の芸術分野の諸活動は、現今の「ワーク・ライフ・バランス」などを簡単には斟酌できない領域にあるのかもしれません。彼らは相応の(ときに天才と呼ばれる)才能に恵まれていたとしても、実際には、必ずしも日の当たらない場所で費やした途方もない努力と熱意の継続性を強調してやまないからです。ひょっとして、彼らのエネルギー源は私たちが持っている「仕事」に対するかりそめの情熱などとは異質の、「おもしろくてたまらない」興味や関心から自然に発せられているのではないかとも考えるところです。
言わずもがなのことですが、誤解のないように、本稿では「ワーク・ライフ・バランス」という概念や社会的試みを否定する意図はないことを断っておかなければなりません。
今述べた「ワーク・ライフ・バランス」という言葉を借りれば、真の研究者や芸術家にとって、その“ワーク”は、“ライフ”と渾然一体となっているのではないでしょうか。もちろん筆者はそのどちらでもないので、体験的にかつ一般的にそう断定することはできません。できませんが、想像するに、そういう領域では、採算性や効率性、そして後に周囲からどのように評価されるかなどいちいち考えてはいられないのでしょう。彼らの活動はもはや義務的な「仕事」などではなく、どこかで形成された(ときには自覚せぬままに湧き出てきた)自身の興味関心に順って、「真実を窮めたい」という純真な欲求に駆動されたものだという気がします。
もちろん、その過程で世俗的な名誉欲(功名心)や金銭欲、そして嫉妬心に汚染される人も珍しくないかもしれません。そういう人たちは結局のところ、どこかで当初の関心から外れた迷路に迷い込んでしまった結末だといえるでしょう。真の研究者や芸術家とは、名誉ある結果を保証されてはいない課題に熱烈に入れ込む人たちのことです。そこではもはや仕事というより、好きで取り組む「道楽」の要素が過半を占めていくのではないでしょうか。
そこで思い出したのは、漱石の「道楽と仕事」という講演録です。
明治44年8月に兵庫県明石で行われたという同講演の記録を編んだ文庫本(「私の個人主義」)の解説者は、「名講演」としていますが、前置きが長いし、脇道に立ち寄りながら論旨を反復させながらの話は、筆者にはいくらか読みにくい文章でした。けれども、言いたいことは仕事/職業の本質を衝いたものであり、原理的に考えるうえで今なお啓発性を失っていないと思いました。さすが夏目漱石。
青空文庫(道楽と職業)にも公開されていますので、少し長くなりますが、関連部分を引用してみましょう。(強調は筆者)
それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。
[夏目漱石:『道楽と職業』、所収「私の個人主義」、講談社学術文庫(第87刷)、P30]
ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠って深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。
それから芸術家もそうです。こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向(くらしむき)の助けになるだろうと傍の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略はない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲のあるのは無論だから多少世間と折合って歩調を改める事がないでもないが、まあ大体から云うと自我中心で、極く卑近の意味の道徳から云えばこれほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらいです。
すでに御話をした通りおよそ職業として成立するためには何か人のためにする、すなわち世の嗜好に投ずると一般の御機嫌を取るところがなければならないのだが、本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わなければならない。実際今の世で彼らは名前には職業として存在するが実質の上ではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬*を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食って行けないからたいていは政府の保護の下に大学教授とか何とかいう役になってやっと露命をつないでいる。芸術家でも時に容れられず世から顧みられないで自然本位を押し通す人はずいぶん惨澹たる境遇に沈淪しているものが多いのです。
*筆者注:彼らの費やした時間や努力に見合わない低い報酬
御承知の大雅堂でも今でこそ大した画工であるが、その当時毫も世間向の画をかかなかったために生涯真葛が原の陋居に潜んでまるで乞食と同じ一生を送りました。仏蘭西のミレーも生きている間は常に物質的の窮乏に苦しめられていました。またこれは個人の例ではないが日本の昔に盛んであった禅僧の修行などと云うものも極端な自然本位の道楽生活であります。彼らは見性のため究真のためすべてを抛って坐禅の工夫をします。黙然と坐している事が何で人のためになりましょう。善い意味にも悪い意味にも世間とは没交渉である点から見て彼ら禅僧は立派な道楽ものであります。したがって彼らはその苦行難行に対して世間から何らの物質的報酬を得ていません。麻の法衣を着て麦の飯を食ってあくまで道を求めていました。要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります。
[同書、P31-33]
漱石はやや自己韜晦的な書き方をしています。学者や芸術家が、「ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけ」であり、「これほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらい」だと書かれていますが、そのこころは、「そのような生き方、振る舞い方でないと窮められないものが学問や芸術である」と言いたいのだと思います。
さる大国では、大学の研究費を停止させたりその自治を阻害したりする政治家が君臨し、それに先行して私たちの国でも、ほんらいは大きな自由を保障しつつ,大切に保護しなければならない学術会議の自治を妨害する政治的動きがありました。学問や芸術を志す者が、食い詰めることなく、のびのびと真実を追求することができ、一時の政治的動きに左右されることのない世の中であることを望みたいと思います。