ふじみクリニック

嘘と事実と真実と

2023.11.30


[清瀬 御殿山緑地 2023年11月]

あれほど暑いと言っていたのに、気がつくと冬将軍の足音がすぐそこまで忍び寄ってきています。樹々が華やかに色づき、落ち葉が舞い、田舎街の商店街にもイルミネーションが灯る季節です。駅からぶらりと十数分歩けば、いくつもの休耕畑に出会います。枯れかかったセイタカアワダチソウの群落が夕陽を浴びる光景は、まるで小人の妖精が住まう森のようです。

その小さな草の森の前に、滑り台一つだけの小さな公園がありました。公園のベンチに、初老の男性と乳母車に幼児を乗せた若い母親が、散歩の途中なのか、夕日を眺めながら何やら小難しい顔をして話しています。親子+孫らしいのですが、そっと聞き耳を立ててみました。

あのね、保育園のママ友と話していて、「嘘と真実」ってどう違うんだろうっていう話になって、よくわからなくなってしまったんだけど、「嘘」ってなんなのかしら?
本当でないこと、事実と違うこと、真実でないこと。
・・・それなら、「本当のこと」と「事実」と「真実」ってどう違うの?
日常用語としては、大きくは違わないと思うけどね。
「まったく同じ」というわけではないのね。
そうだね、「事実」というとき、たいていは「客観的事実」のことを、つまり複数の人が見聞可能な出来事であって、そこで何が起こったのか概ね共有されるような可視的/可聴的な現象のことをいう。真実とは、観察された客観的事実の陰(裏)に秘められた人の感情とか思いとか、他者から言えば「その人なりに解釈されたことがら」ということになるだろうか。
なんとなくは、わかるんだけどね。
例を挙げた方がわかりやすいかもしれない。
ある男がある女に『君が嫌いになったから別れよう』と言ったとき、その言葉を言ったこと-『君が嫌いになったから別れよう』という音声を発したこと-は「事実」(録音・撮影可能で時間が経っても再現できる事象)だと言えるだろう。
けれども、その男はほんとうのところはその女を変わりなく心から愛しているのだが、言うに言えない、よんどころない事情で『嫌いになった』と言わざるを得なかったという場合もありうる。
そのような場合、男の「真実」の気持ちは、事実として発せられた言葉の反対である-というような言い方ができる。
「よんどころない事情」とは、昔なら身分・家格の違いとか、ドラマなら実は幼い頃に生き別れた兄妹であることを男だけが知ってしまったとか、借金取りとかやくざに追われているから恋人を巻き添えにしたくないとか-エトセトラ。
さらに言えば、男が自身の真実の気持ちをただしく自覚していないような場合さえ想定できるだろう。
そうだとすると、「事実」として、あるいは「真実」だと主張されて語られたことがほんとうの「真実」かどうかも永久にわからないんじゃない?
まあ、そういうことになるね。
さっき言ったように、記録される音声や画像としての「事実」は概ね一つだが、「真実」は人の数だけあると言えるかもしれない。
そういえば、黒澤明監督の『羅生門』という映画を思い出した。
たしか1950年頃の話題作だ。どこかの国際賞を取った作品だ。
原作は芥川龍之介の『藪の中』、さらにその素材は今昔物語集の一話-『具妻行丹波国男 於大江山被縛語 第廿三(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)』(https://hon-yak.net/29-23/ )。
あのね、いつものことだけど、そんなふうにいちいち教養見せびらかしてくれなくてもいいんだけれど。
でもそうしたら私たちは、人の話を聞いた場合に何を大切にしたらいいのかしら? とくに悩み事相談とか「こころの専門家」みたいな呼ばれ方をする人にとっては。
そうか、確かおまえは大学に入る前はカウンセラーになりたいと言っていたね。
もちろんどちらも大切だよ。
その答えはずるいかも。
ずるくはない。だいたい相手の語ったことの「客観的事実性」なんて、警察や探偵じゃないんだから確かめようがない。
それじゃあ、その人の言うことを信じるだけでいいの?
必ずしもそういうわけではない。
ある人の語ることを聞き手がどう判断するかは、相手との関係性やその時々の状況によって変わるものだ。
ふつうはね、相手の語りをまずは暫定的に『事実』ないしは『真実』と措定するものだ。いちいち、「この人の言うことは事実かどうか」なんて疑いながら聞くのは失礼だし、疲れちゃうし。それにこちらは取り調べの捜査官でもないんだしね。
それでも、話を聴いていくうちに、論理的整合性に欠ける部分や、以前語られたこととと食い違う部分に気づくことがある。そこで相手に疑問を投げかける(そこのところ、もう少し詳しく教えてください、などと尋ねる)。そうすると話し手は少し考えこんで(考え込まない人もいるけど)語りはいくらか変化していく。そんな対話の繰り返しの中で、その人自身が自分の体験を見直したり、体験の背景にあったかもしれない「もう一つの真実」に気づくことになるかもしれない。それが一つの成果。
何の成果?
ていねいに聴くことの。
それはわかる気がする。でもやっぱり「事実」はわからないままね。
その通りだ。事実はどうでもいいとまでは言わないが、人を生かすも殺すも真実-心的現実(解釈)-物語性-の方が重要であることが多い。動く(変化する)のはそれだけだし。
う~ん、それでいいのかなあ。
例えばね、『むかし学校でひどくいじめられて、惨めで無力な私が何もできないまま、消えてしまいたい思いだったが、死ぬに死ねなくて、かろうじて生かされている』より、『あの時は確かにいじめれて苦しかったけど、そのあと死にたくなっても、ここまで何とか生き延びて、ここにこうして在る私の方が、昔いじめた友人(今は友だちだなんて思わないけど)や、必死に訴えても守ってくれなかった先生たちを心の中で切り捨てたのだ』という自己解釈を紡ぎだせたとしたら、その人のその後の人生は新しく拓かれるのではないかな。
そんなふうにかんたんに「真実」は変わるの?
それは簡単ではないよ。たくさんの新たな「事実」が不可欠だと思う。
新たな事実?
自分の今の生を肯定できる体験、つまり他者の評価、共感、関与。新たな出会いの中で「大事に扱われること」、「尊厳ある主体として遇されること」。つまりは、自信(自分のことを信頼できる心境)というものが得られる体験が必要だろう。
「尊厳ある主体」ってどういうこと? 中学生にもわかるくらいに説明してよ。
う~ん、まあそれは次の話題にしよう。
なんか昔の歌謡曲を思い出したなあ。誰の曲か忘れたけど。
♪♪ 折れた 煙草の 吸いがらで
あなたの嘘が わかる~のよ
なによ、そんな知らない歌。
私なら、中島みゆきね。
♪♪ 男はいつも 嘘がうまいね 女よりも こどもよりも 嘘がうまいね
女はいつも 嘘が好きだね 昨日よりも 明日よりも 嘘が好きだね
おまえもまた古い名曲よく知ってるな。
「歌姫」だったと思うが、たしか私が大学卒業前後の発表だから・・・
いいよ、細かいオト(父)ペディアは。昔の曲もユーチューブとかアマゾンミュージックでいくらでも聴けるんだから。うちに帰って「アレクサ、中島みゆきの歌!」って叫んでみなさいよ。
おまえさんの情報は便利だけど、どうも風情が欠けているな。

親子の話を聞いているうちに、筆者の心にも、若い頃聴いたフォークソングが浮かんできました。
あれはタクローさんだったと思いますが・・・

♪♪ なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている
・・・永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ